#2 想い
そのニュースは、朝５時に友人から知らされた。といっても、私は今、日本と時差１５時間程の国で暮らしているので、日本では午後８時、テレビを見ながら夕食でもとっている時間だったかもしれない。ゲームとともに夜を更かしたからか、瞼がぴくぴくと痙攣している。私の体の寝不足のサインだ。体はまだ寝たいのに、眠りが浅いので、震度１にも満たないスマホの振動でも目が冴えてしまう。
昼夜が逆転していると、日本のニュースをキャッチするにも時差が生じる。特に夕方以降のニュースで新たに報じられる情報は、翌朝眠い目を擦りながら追いかけることになるのだけれど、日本に住んでいた頃と比べて、受け止め方の深度が変わってきた。
仕事を終え、その日の喜怒哀楽をリセットし、自宅で晩御飯を食べながらテレビから情報を得るときは、「速報」の文字を見るだけでドキッとしていた。誰にも邪魔されない時間、メモリが空っぽになった脳にぶち込まれる情報は、自分が興味を持つジャンルであればある程、麻薬のように私の夜を支配する。アドレナリンがどばどばと音を出して放出され、ベッドの中でスマホと向き合う時間が延びる。他にすることもないので、自分が満足するまで情報を深堀りできる。そうして、自分の脳の引き出しにストンと収まるまで咀嚼し終えてから眠りにつくことができるので、翌朝のニュースでコメンテーター達から様々な意見が出されても、「そういう考え方もあるのかあ」と相槌を打つ余裕が生まれる。
しかし、今ではそんな余裕はない。１日の始まりに得る情報は、自分の気持ちに折合いがつくまで咀嚼する時間を取れず、日中はそのまま情報の大海原に飛び込んでいってしまう。こちらの昼休みの時間にでもなれば、日本ではすっかり情報が掘り尽くされた後で、その膨大な量を追いかける暇もない。夕方、やっと情報を整理する時間が取れるが、日本ではさらに１日という時が進んでいるので、どこから採ってきたのか、また新たな情報が加えられることもある。そうなると、それらを咀嚼しようとするのも疲れてしまう。そうやって諦めが癖になってきた頃、こちらの生活に慣れてきたことも相まって、日本のニュースへの関心が段々と薄まっていってしまっていた。
だから、驚かないと思っていた。友人から「ねえ、ニュース見た？」という連絡が来ても、自分にそれほどの衝撃を与えるものではないと思っていた。
だけど。
「芦原先生、亡くなったよ。」
その１文で、声が出なくなった。
死にたいと思ったことは何度もある。家族に自分の存在を肯定されなかった時も、クラスメイトに無視をされた時も、これ以上は無理だと思って会社をずる休みした時も。いつだってちゃんと絶望したし、目の前も頭の中も、ドス黒い感情で溢れた。食事が喉を通らない、そんな文字通りの状態にも何度も陥った。体は生きようとしているかもしれないけど、ちゃんと心が死んでいた。
そんな時、いつもそこには芦原先生の漫画があった。家族関係も友人関係もぐちゃぐちゃだった幼少期には『砂時計』が、何者にもなれない自分から目を背けていた大学時代には『Piece』が、生きることに必死な中で夫と出会った社会人期には『Bread&Butter』が、日本から離れもう一度自分を再建している今は『セクシー田中さん』が。どんな時も、厳しい、でも優しい温度で紡がれたキャラクター達の言葉に、生かしてもらっていた。これから先何があっても、きっとまた先生の言葉が私を生かし続けてくれると勝手に思っていた。私の生き方の矜持は、間違いなく芦原先生の言葉からもらった。
メディアでは色々な意見が溢れているようだけれど、私にとっての事実は芦原先生が亡くなったということだけだ。他者から勝手に情報を持ち込まれず、その事実をゆっくりと受け入れられる環境にいられることが、今の私にとって幸いだったのかもしれない。
最後に、深淵から私を救ってくれた言葉を添えて、芦原先生のご冥福を心より祈念いたします。本当にありがとうございました。
泣いたり怒ったり 笑ったり大切に想ったり 大切にしてもらったり
今の私は あの想い出と あの想い出と あの想い出でできている
そう思ったら 自分がひどく愛しい存在に思えてくる
#1 東京
東京が好き。東京という街が好き。
あんなにもたくさんの人が、それぞれ毎日を死ぬ気で頑張って生きているようで、実は大半の人が巧く手を抜いていて、そしてそういう人しか生き残れない街。冷たくなった風に季節を教えてもらうのではなく、まだ蒸し暑い時期から長袖を販売する服屋や、10月31日を終えた瞬間にクリスマス一色に変わる街中の広告に、急かすように季節を教えられる街。夜、終電まで働く人々のおかげで、高層階のオフィスビル群が街全体を彩るイルミネーションになる街。そして、それらをスカイツリーや東京タワーから見下ろす観光客が、綺麗だねと笑顔になる街。
あんなにたくさんの人がいるのに、1時間あれば、電車１本で端から端へ移動できる、小さな街。夜になると、人の数より多いんじゃないかと思うマンションの各室に、みんなちゃんと帰っていくのは、きっと、神様がシルバニアで遊ぶように、手作業でお片付けをしているに違いない。この人はこっち、この人はあっち、という風に、1人ずつ箱に収納している。神様は毎日大変。だから、時々疲れて、終電を逃して家に帰れない人がいるのは仕方ない。その人はきっと、神様の就寝時間に間に合わなかった人だから。
大学進学とともに上京して、10年以上経った。2時間以上空を飛び、東京という未知の地に舞い降りて、初めて目にした駅の自動改札機。ランドセルを背負い、1人で朝の満員電車に乗り込む小学生。道を挟んで向かい合う同じ名前のコンビニ。これらも全部、今では風景になった。
おじいちゃんおばあちゃんも楽しく歩けるようになればより良いなと思う、渋谷。
点在しているように見えて実は地下でほぼ全てが繋がっている、新宿。
高級地というならもう少し余裕を持たせられないかなと密に願う、自由が丘。
ここに来ると上京した日を思い出す、六本木。
ちゃんと知れば大学生の時ももっと遊べたんだなと悔いた、銀座。
この場所があって良かったと思える、浅草。
私にとって毎日が戦場だった、丸ノ内。
どの場所も、今の私を形作ってくれた大切な場所になっている。
地元に帰りたい、と思ったことはない。好きになりたいのに、いつも窮屈に感じていたあの場所から、1日でも早くいなくなりたかった。1秒でも早く、時々帰って懐かしめる場所にしたかった。何事も手を抜くことが許されない学校。どこに行っても有難く監視してくる余計な目。他人の噂話でしか楽しめない人付き合い。生まれ育った場所なのに、私にとって、大切な場所にすることができなかった。
東京で生きていくことは、とても楽。何もかもが均一かつ平等で、機械的に進んでいく日々の中で、みんなで同じレールに乗りつつも、自己責任の名のもとに好きなものを選択することが許される世界。
大学で出会った人が、今の私を作ってくれた。
会社で出会った人が、今の私に育ててくれた。
楽しくて今日が終わらなければ良いなと本気で願った日も、仕事が辛くてこんな日々が早く終わりますようにと願った日も、全部宝物だ。
私は今、日本を離れ夫と海外で暮らしている。四季が無いこの国では、満開に咲き河に散っていく桜も、大きく膨らんだ茄子やトマトの夏野菜も、迷惑なくらい道路に覆いかぶさる銀杏も、もうここで朽ちても良いと思わせてくれる炬燵も、全てが懐かしく、とても恋しい。次、いつ日本で暮らすことができるかは分からない。けれど、もし帰ることができるのなら、東京という街で、皺皺のおばあちゃんになるまで生きてみたい。
